伝道者の書 3章11節

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。
この言葉は「運命的な出会い」や「神がかったタイミング」を経験した人が、神さま素晴らしいと言っているだけではありません。この言葉には、とても長い前置きがあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。…愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある」。誰ひとり、生まれたいから生まれるとか、いついつどこに生まれるとか、生まれる前に亡くなるとか、決めることが出来ません。また、愛したいのに憎み、争いたくないのに争いに巻き込まれるといったこともあります。私たちひとりひとりは、人生の主人のはずです。にも関わらず、「誕生」という私たちにとってとても大切なことを、何一つ決めることが出来ません。ですから、聖書は人生の主人は、私たちではなく、物事の時を定め支配されている方であると気づかせようとします。
聖書の他の箇所に「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22章13節)という言葉があります。このはじめの時と最後の時を支配している「わたし」と言われる方が真の支配者であると言っています。
「初めであり」とは、この「わたし」と呼ばれる方が「世界をつくられた」ことを意味します。そして、「終わり」とは、「世界の完成」を意味します。そして「今」、この「わたし」と呼ばれている方が、「世界を完成へと導いておられる」ことを意味します。この世界を造られた「神」が、はじめも、完成も、そして、今も全てを支配し(上から押さえつける支配ではなく、腕を伸ばし全てを支えている支配です)導いておられることゆえに、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と告白することが出来ると語っています。