イザヤ53章1節〜6節
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
この聖書のことばは、イエスが誕生するはるか700年前に書かれた言葉です。人々は救い主を待ち望んでいました。そして救い主の姿は、王者のような、また神の権威を持った輝くような人物に違いないと考えていました。しかし、イエスはそのどちらも持ち合わせていませんでした。そればかりか、馬小屋で生まれ、大工の息子として、イスラエルの片田舎で育ちました。誰も彼が救い主だと分かりませんでした。しかし、この聖書のことばによるなら、救い主は人々の苦しみや痛みや病気を知る者であり、そして全ての人の罪を背負う者であると言います。それは「しもべのような」姿をした救い主です。この聖書の言葉によるなら「全ての人の悲しみ、痛み、苦しみ、そして罪を背負い、十字架上で神の裁き(怒り)を受けられたイエス」以外に真の救い主はいません。「背負うしもべの救い主」こそ、神が私たちに与えられた者です。イエスはあなたの全ての苦しみ、そして全ての罪を背負って下さいます。