「主を恐れることは知識のはじめ」
(*「神さまを恐れる」とは、神の偉大さ、権威、力の正しく知り、敬い畏れるとの意味です。)
聖書には、日本のことわざのように、知恵のことばと呼ばれる箴言(しんげん)が、収められています。でもただのことわざではありません。神を源とした「知恵のことば」なのです。神は天と地すなわち、全宇宙を創造されました。もちろん私たち人間も神さまが創造されたのです。私たちは、本当の意味で「人間どのように歩めばよいのか」分からないのですが、その理由は、私たちを創造された神さまを見失っているからです。「人間がどのように歩むべきか」を知っておられるのは神さまです。その神さまの知恵、それも「人間がどのように歩むべきか」についての神のことばが「箴言」に収められているのです。
私たちは、様々なことをお恐れます。不安になります。そればかりか、恐れと不安から行動してしまうものです。それはある意味で、恐れという鎖に囚われていると言えます。ですから聖書には「恐れてはならない」という命令が、何度も繰り返し出てきます。「恐れるな。わたしは(神)あなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る」(聖書)。
ところが聖書には「恐れよ」という命令も繰り返されます。恐れるなと、恐れよでは矛盾するように感じますが、矛盾してはいないのです。箴言をはじめ、真の知恵は「神を恐れよ」と教えます。そして、私たちが創造者なる神さまを知り、このお方を正しく畏れ礼拝する時、他への恐れは消え去ると宣言します。真に恐るべき方を恐れる時、その他への恐れが消え去ることは興味深い事実です。
私たちには様々な恐れがあります。それは不安を生み出します。人、災い、経済、健康、そして未来においてさえ、私たちは恐れと共に不安を抱くものです。しかし、神を恐ることを知りはじめる時、これらの一切の恐れが消え去るのです。なぜなら、神が全てを支配しておられること、そしてこのお方を信頼し従う人々を守り支え導かれることを経験し知ってゆくからです。このお方に立ち向かい、勝ることのできる存在はありません。
神と出会い、このお方を知り、正しく恐れはじめる時、「神の御前に生きる私という、本来あるべき私のの歩み」がはじまるのです。ですから「主(神)を恐ることは知識のはじめ」と宣言するのです。
このお方を知るため、また礼拝するため、ぜひ日曜礼拝へお越しください。