ヨハネの福音書 3章4節

人は必ず死にます。
聖書の時代に比べて、確かに医学は大きく進歩しました。ですが人の身にある以上、いつか必ず私たちは死ぬのです。

「では死んだら、私たちはどうなるのでしょうか?」

それはニコデモならずとも、誰もが一度は考えます。人間である以上、この「死」を逃れることも、忘れることも出来ません。しかしイエス様は、ニコデモを通して、私たちに「死は終わりではない、天国への道の始まりである」と示されました。

ただしそれには、条件があります。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とはっきり明言されました。ニコデモは当惑しました。イエス様は続けて「水と御霊(ご聖霊)」によってのみ、人は新しく生まれるのだと示されました。

「水」とは何でしょうか?それは、きよめの水であり、ここでは罪のきよめを意味します。

「聖霊」とは何でしょうか?それは、三位一体の一人格である、聖なる神ご自身です。イエスを信じる全ての者の内に、神ご自身であるご聖霊が内住されるのです。(三位一体は、唯一の神でありながら、父、子、聖霊の三つの人格をもつことです。三つの神であり、同時に一つの神であるキリスト教の神秘です)

私たちは罪の中に生きています。そして神様は、聖なる御方です。その完全に聖なる御方が治める天の国には、罪に汚れたままの身では、決して見ることも、ましてや入ることは出来ません。そんな私たちの罪をきよめる為に、十字架の上でイエス様は完全に死なれました。水は外的な汚れをきれいにします。しかし、内側の汚れ(心)をきれいにすることができません。内側の汚れ(罪)をきれいにすることができるのは、イエス様が十字架で流された「血」だけなのです。

イエス様は明言され、約束してくださいました。わたし(イエス)を信じるなら、水と聖霊によって新しく生まれることが出来る、と。だからクリスチャンは、死を恐れません。恐れるとしたら、それは神様への愛を見失ってしまうこと。天国への道を目の前にしながら、迷い、失い、背を向けてしまうこと。

あなたの前に、天国への道は示されています。
その道を選ぶかどうかの選択の機会は、生きている、今だけしかありません。