詩篇 126章4節
詩篇120~134篇は、都上りの歌と銘打たれています。
この14篇にも及ぶ祈りは、古代イスラエルの人々にとって三つの重要な祭りの為に、シオンへ上っていく際に歌われたものだからです。では彼たちは何故、シオンに上って行くのでしょうか。では私たちは何故、シオンへと上らないのでしょうか。
詩篇126篇には「ネゲブの流れ」という言葉が、たびたび登場します。ネゲブとはシオン(エルサレム)の南に広がる乾燥地帯であり、更にネゲブの南部地域は砂漠とほとんど変わらない、荒涼とした土地です。それは現代に於いても変わらず、人間の手で緑地化を目指したとしても、それは無駄に終わるでしょう。人間の技術は、聖書の時代に比べれば驚くほど進化しました。もしも当時の人々が現代の技術を見れば、それは神の領域かと誤解するほどでしょう。使い方によっては、地上に太陽すら再現できる現代の技術は、しかし、荒涼としたネゲブに緑をもたらすことは出来ません。
ネゲブには年に一度、大変な雨が降るそうです。そしてその雨は、赤茶けて草木の一本も無いネゲブの地を、瞬く間に緑の大地へと変えてしまいます。神はその栄光を、速やかに、鮮やかに示してくださるのです。
私たちは多くの問題を抱えています。
そしてその問題は、私たちの手では解決できないものばかりです。
だから私たちは祈り求めます。
救いがある事を信じて、祈り続けます。
ですがネゲブにいつ雨が降るのか、救いはいつ与えられるのか、それを知ることは人間には出来ません。私たちは私たちの問題を、神様が速やかに取り去ってくれることばかりを期待します。そこに、本当の祈りはあるでしょうか?
詩篇126篇は歌います。
ネゲブに雨がもたらされるとき、私たちは喜び叫びながらそれを刈り取ろうと。
ひとたび雨が降るならば、救いは確実にもたらされます。
しかし雨がいつ降るかは、神様だけが決められるのです。
詩篇126篇は歌います。
ネゲブに雨が降る日を信じて歌い、祈ります。そこに記されているのは、神様との「約束」を信じて委ねること。その雨がいつ降るのか分かりません。今日か明日か、それとも何十年も後なのか。もしかしたら、生きている間に降ることが無いかも知れません。私たちは嘆き、苦しみ、怒ります。いつ雨が降るのかと、神様に向かって怒ります。
そんなとき、私たちは詩篇126篇を祈るのです。私たちの計画ではない、神様の計画を信じて委ねるために、私たちは詩篇126篇を祈るのです。
ネゲブに必ず雨は降ります。
乾燥しきった世界に雨が降り、瞬く間に世界が変わります。神の救いが一度もたらされると、その力強さとその早さは誰にも止めることは出来ません。私たちに出来ることは、雨を降らせることを「約束」した神様だけを信じて、委ねて、祈り続けるだけです。かつてイスラエルの人たちは、約束を待ちきれずにシオンへと上りました。
では”あなた”は、どうしますか?